イタリア語について
中央アジアの最も古い住民であるタジク人の歴史は、異民族による征服の歴史であるといえます。
タジク人自身が主役となり光彩を放った王朝はサーマーン朝が最後となり、その後はずっとトルコ系遊牧民族の支配下におかれることになりました。すでに定着農耕民として高い文化を築いていたタジク人はトルコ系王朝の中枢で活躍し、その文化にも影響を与え続けました。
いずれもオアシスの中心都市であったブハラとサマルカンドはタジク人の文化遺産であり、両都市が現在タジキスタンではなく、ウズベキスタンに属していることを遺憾に思っているタジク人は多いです。
10万年前 | サマルカンド地方に人類定住跡 |
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BC 6C | アケメネス朝ペルシャがバクトリア(現在のタジキスタン)地方を支配 |
3C | バクトリア王国(前250?~140年?)がセレウコス朝から独立。現在のタジキスタンの大半を支配 |
AD 45 | 大月氏がバクトリアにクシャン朝(45~242年?)を興す。ガンダーラ仏が生まれ、ソグド人を介して仏教が広まる |
9C | ブハラを首都に、タジク人が主体となったサーマーン朝(874~999年)が興る |
15C | ブハラ・ハーン国の宗主のもと、カラテギン、ヒッサールなどに小王国が分立 |
19C | ブハラ・ハーン国とともにロシア帝国が現在のタジキスタンの地を併合。パミール地方は未占領地として残り、ロシアと英国のいわゆる「グレート・ゲーム」の係争地となる |
1918 | トルキスタン・ソビエト社会主義自治共和国成立。タジキスタン地方もその一部に |
1922 | エンヴェル・パシャ率いるバスマチ(イスラーム反乱軍)が一時的にドゥシャンベを支配 |
1924 | ウズベク・ソビエト社会主義共和国内に、タジク自治共和国が成立 |
1929 | タジク・ソビエト社会主義共和国成立 |
1976 | 地下組織イスラーム復興党結党 |
1991 | ソ連解体。タジキスタン独立を宣言(9月9日) |
1991 | 選挙で元タジク共産党第一書記のラフマン・ナビエフ(北部レニナバード州出身)が大統領就任(11月) |
1992 | 南西部クリャブ市から集められた大統領護衛隊に武器が供与される。反対派の平和的デモに発砲(5月2日) |
1992 | 首都で銃撃戦。ナビエフ大統領は反対派との連立政権を樹立。レニナバード州とクリャブ市はこれを承認せず。(5月) |
1992 | 犯罪者らに率いられた元大統領護衛隊の人民戦線(現政権寄り)がクルガン・テッパ市を襲撃。内線激化(5月)。後にナビエフ大統領辞任(9月) |
1992 | レニナバード州で共産党政権が樹立され、エマムアリ・ラフモン(クリャブ市出身)が第一書記に就任(11月) |
1992 | 人民戦線が首都ドゥシャンベを奪回。連立政権崩壊(12月) |
1993 | 現政権側がほぼ全土を制圧し、大規模な戦闘がなくなる。以降、反政府派による散発的な戦闘が続く |
1997 | タジク統一反対派(UTO)のサイード・アブドゥール・ヌリと政府間に和平協定(政権内部の大臣職30%に元反政府側人物を就任させる)が交わされる(ただし、2007年にすべての大臣職から元反政府側人物はいなくなる) |
1998 | ガルム地方で、国連タジキスタン監視団(UNMOT)に参加していた秋野豊国連政務官が強盗団の襲撃を受け死亡 |
2005 | ドゥシャンベ市で爆弾テロが発生。この後、テロ活動は沈静化する |