マクシム・ゴーリキー 作家
ゴーリキー Gorikii, Maksim 本名 Aleksei Maksimovich Peshkov 1868~1936 ロシアの作家。
ソヴィエト文学の父。ヴォルガ河畔ニジニ-ノヴゴロドの指物師の子。幼くして両親を失い、貧窮のうちに転々と職をかえ、ロシアを放浪。絶望して自殺をはかったこともある。独学で創作に志し、コロレンコに私淑し、1892処女作「マカール-チュードラ」を発表、ついで’95「チェルカッシュ」、1901「海燕の歌」等で名声を得る。社会の下層にうごめく人々の荒々しい生命力を賛美し、プロレタリア文学への道をひらく。長編小説「母」(’06)で革命家の典型(ヴラーソフ)を描き、戯曲「どん底」(’02)、「敵」(’06)等も有名。レーニンと親交があり、’05の革命で逮捕され、のち国外へ亡命。’15より「年代記(レートピシ)」誌を編集、その周囲に左翼作家を結集。’17の2月革命で帰国、「新生活(ノーヴァヤ-ジーズニ)」紙を発行、ボリシェヴィキ路線と対立したが、10月革命後は、ソヴィエト政権を支持、<社会主義リアリズム>の輝ける旗手として、新文化の建設に挺身した。晩年には、未完の大作「クリム-サムギンの生涯」(’27~36)に打ちこみ、ロシア革命に至るインテリゲンチャの没落の歴史をテーマとした。ほかに自伝3部作、’13~’14「幼年」、’15~’16「世の中へ」、’23「私の大学」がある。(著)「著作集」(30巻)1945~55。
アンドレイ・サハロフ 原子物理学者
サハロフ Sakharov, Andrei Dmitrievich 1921~89 ソ連の核物理学者。
1942モスクワ大卒。’53よりソ連科学アカデミー会員。’50タム博士と共同で熱核反応の制御についての研究を完成。ソ連の<水爆の父>と呼ばれるが、反体制の姿勢を隠さず、’66、23回党大会を前に、スターリン名誉回復に反対する書簡に署名。’68小冊子「進歩・平和共存・知的自由」を発表。’75ノーベル平和賞受賞。’80ソ連国家への反逆を理由にすべての国家称号を剥奪され、国内流刑。ペレストロイカの下で復権。
イーゴリ・ストラヴィンスキー 作曲家
ストラヴィンスキー Stravinsky, Igor Feodorovitch 1882~1971 ロシア生れのアメリカの作曲家。
F.I.ストラヴィンスキーの子。ペテルブルグ大の法科に学び、リムスキー-コルサコフの個人教授をうける。初期の作品で、ロシア-バレエ団を主宰するディアギレフに認められ、同団のパリ公演でバレエ音楽「火の鳥」(1910)、「ペトルーシュカ」(’11)、「春の祭典」(’13)を初演。拡大された管弦楽効果と野生的リズムによって、バーバリズムといわれる音楽の新たな道を開き、現代音楽にセンセーショナルな影響を与える。ロシア革命後帰国せず、1920年代から新古典主義に転換、パリを中心に活躍、’34フランスに帰化。’39アメリカに移って’45市民権獲得。その後12音技法も手がけ、1作ごとに話題を提供。20世紀最大の作曲家の一人。’62、48年ぶりに祖国を訪問、’59来日。(作)バレエ音楽「プルチネッラ」1920、「アゴン」’53~’57、オラトリオ「オイディプス王」’27、「詩編交響曲」’30、「交響曲ハ調」’40、「レクイエム-カンティクルス」’66。(著)「音楽の詩学」1946。
アレクサンドル・ソルジェニーツィン 作家
ソルジェニーツィン Solzhenitsyn, Aleksandr Isaevich 1918~2008 ロシアの作家。
ロストフ大物理数学科卒。対独戦に参加。1945不当な告発をうけ、8年間の服役後、’56釈放され、名誉を回復。物理・数学の教師をつとめるかたわら’62「イワン-デニーソヴィチの一日」を発表、有名になる。ソヴィエトの官僚機構を徹底的に批判し、人間性の回復を求めたが、その作品がとくに反ソ的という理由で、’69作家同盟から除名された。その技法は、作者・主人公・語り手が融合した<語り>と、特定の主人公よりも登場人物全体の<声>の重なりを重視するポリフォニーが特徴で、ドストエフスキーの再来ともいわれる。’70ノーベル文学賞受賞。’74年2月13日反体制的運動のため国外追放となり、一時チューリヒに在住したが、その後アメリカへ移住。’83テンプルトン宗教功労賞受賞。’89作品がソ連で解禁され、’90ロシア共和国文学賞を受賞。’94ロシアへ永住帰国した。(著)「マトリューナの家」1963、「がん病棟」’68、「煉獄のなかで」’68、「1914年8月」’71、「収容所群島」(3巻)’73~’75(パリ刊)、「崩壊するロシア」’98。
ピョートル・チャイコフスキー 作曲家
チャイコフスキー Chaikovskii, Pyotr Iliich 1840~93 ロシアの作曲家。
初め法律を学び、司法省に勤務。のちペテルブルグ音楽院でA.G.ルビンシテインに師事、1865卒業。’66モスクワ音楽院の教授。’77結婚に失敗して自殺をはかり、スイス・イタリアに転地。この年より国外で生活することが多く、また富豪の未亡人ナデジダ-フォン-メックの経済的援助を得て作曲に専心。’85ロシアに定住、その後自作の指揮をして西ヨーロッパ・アメリカに演奏旅行。同時代の国民楽派と対照的にヨーロッパ音楽の伝統様式を継承発展させたため<西欧派>または<折衷派>等と呼ばれるが、ロシア音楽を普遍的芸術に高めた。(作)オペラ「エヴゲニー-オネーギン」1878、バレエ音楽「白鳥の湖」’76、「眠りの森の美女」’90、「くるみ割り人形」’92、「交響曲第6番、悲愴」’93、「ピアノ協奏曲第1番」’75、「ヴァイオリン協奏曲」’78.